The Glorious 70 Years History 栄光の歴史
2016年に創部70周年を迎えた
雪印メグミルクスキー部。
これまで様々な形で
日本の競技スキーを
けん引してきたその栄光の歴史を
今ここに振り返る。
スキー部は戦後のまだ日本全土が混沌としていた昭和21年(1946)に誕生した。そして、瞬く間に日本の競技スキーを牽引する存在となった。その中心人物となったのが落合力松。160cm、54kgという小柄な彼がまるで弾丸のように白銀を駆け抜けていく姿を見て、人々は「雪の超特急」と驚嘆した。長距離スキー界のスーパースターとなった落合の下に続々と有能な選手が集まり、リレー競技では「走る酪農」のニックネームで国内の名だたる大会を制していった。
この当時、雪印メグミルク㈱は前身の北海道酪農協同㈱の時代だった。
“もはや「戦後」ではない”といわれた昭和30年代、スキー部はその時代の雰囲気に呼応するようにジャンプ種目に力を注ぎ始める。その中心人物となったのが昭和31年(1956)に入社した菊地定夫。全日本学生選手権で史上初の3連覇を達成した逸材である。彼は一般社員として働きながら、勤務時間外に練習をする“サラリーマンジャンパー”でもあった。二足のわらじで快進撃を続けた彼は、昭和37年(1962年)、ついに全日本選手権2冠を含む13戦中12戦優勝という大偉業を成し遂げる。そんな菊地は宮様大会で4連覇した時「会社の仲間は製品を売るのに一所懸命だ。俺たちは優勝して会社の名前を新聞上でPRするのが仕事であり、義務だと思っている」と語ったという。
昭和33年(1958)には、2016年で57回目を迎えた伝統あるジャンプ大会、雪印杯全日本ジャンプ大会が雪印シャンツェ(当時大倉山に併設されていた60m級のジャンプ台)で初開催された。翌年の第2回大会、菊地は大倉山を空高く舞い、見事、優勝を果たしたのだった。
戦後の過度経済力集中排除の指定を受け、雪印乳業とクローバー乳業に二分されていたが、昭和33年(1958)念願の合併を果たし、企業の総合力も復活していく。
パックツアーによる海外旅行ブームや昭和45年(1970)大阪万博開催など日本人にとって海外が身近になり始めた昭和40年代(1965~75)、日本のスキージャンプ陣もまた世界を舞台に活躍し始める。その一翼を担ったのが昭和40年(1965)に入社した青地清二だ。学生時代の戦績は振るわなかったが、昭和38年(1963)全日本選手権での大ジャンプ(2位)でその将来性に目が留まり、入部を射止めた。その後、青地は見事に才能を開花させ、国内の大会で好成績を収め名実ともに日本を代表するジャンパーとなる。その青地の名を世界中に知らしめたのが昭和47年(1972)の札幌冬季オリンピック個人ノーマルヒル。2万5千人の大観衆が見守る中、2本のジャンプをしっかりとまとめあげた青地は、笠谷幸生(ニッカ)の金、金野昭次(たくぎん)の銀に次ぐ銅メダルをがっちりとその手中に収め、“日の丸飛行隊”として後世に語り継がれる存在となった。
青地の他にも瀬戸徳人、浅利正勝、沢田久喜、角田幸司、渡部絹夫といった名選手を続々と輩出したこの時代はまさに“雪印飛行隊ここにあり“を国内外に喧伝した時代だった。
第3期黄金期の後、10年間に渡る低迷期が続く。しかし、昭和61年(1986)、田尾敏彰を筆頭に、原田雅彦(現:雪印メグミルクスキー部総監督)、齋藤浩哉、西方仁也、伊藤直人らそうそうたる新人を獲得し、チームは見事に息を吹き返す。当時、最先端の技術であるV字ジャンプをいち早く自分たちのものにした彼らは世界中のジャンプ台でライバルたちを圧倒した。そんな彼らにとって、26年ぶりの母国開催となる長野冬季オリンピックはまさに集大成とも呼べる大会となった。
健闘むなしく惜しくも金を逃したリレハンメル
平成5年(1993)のファルン世界選手権(スウェーデン)ノーマルヒルで原田が金メダルを獲得、西方も7位入賞を果たした。その勢いを維持して臨んだ平成6年(1994)のリレハンメル冬季オリンピック(ノルウェー)。原田、西方、岡部孝信(当時:たくぎん、現:雪印メグミルクスキー部監督)、葛西紀明(当時:地崎工業、現:土屋ホーム)がメンバーに選ばれた国別団体ラージヒルでまさかの波乱が起きる。ライバルチームを得点で大きく引き離し金メダルがほぼ確定と国民の期待が高まる中、ラストジャンパー原田がジャンプ台を滑り出す。しかし、その数分後、我々が目にしたのは、着地点にずっとうずくまる原田の姿、そして、彼を励ましに駆け寄る仲間たちの姿だった。まさかの失敗ジャンプで金メダルは逃したものの、堂々たる銀メダルだった。
そして、いざ長野へ
その4年後の平成10年(1998)、長野冬季オリンピックを迎える。スキー部からは原田、齋藤、そして平成8年(1996)たくぎんから雪印に移籍した岡部孝信の3人が日本代表に選ばれる。そこに若き日本のエース船木和喜(現:フィットスキー)らが加わり、史上最強との呼び声も高かった日本ジャンプ陣。26年ぶりの母国開催となる長野五輪で彼らはその実力をいかんなく発揮し、船木が個人ラージヒル金、個人ノーマルヒル銀、原田が個人ラージヒル銅メダル獲得という大偉業を成し遂げる。しかし、長野最大のハイライトはやはり国別団体ラージヒルの金メダルだった。
リレハンメルから長野までのジャンプ団体金メダル獲得の長い道のり。それは原田自身が「俺じゃない。みんな、みんななんだよ」と語ったように、多くの人たちの熱い思いと努力が詰まった道程だった。
その日、舞台となる長野白馬のジャンプ台に青空はなく、灰色の雲が重苦しく立ち込め、雪が間断なく降り注いでいた。じっと固唾を飲んで見守る数万の観客とブラウン管越しの多くの日本人。その私たちの目の前で、まずは岡部がK点越え、齋藤が130mの大ジャンプを飛び、大きくライバルをリードする。そして、3番手の原田を迎えるが、不運にもこの時、急激に天候が悪化する。身の危険すら感じさせる視界をふさぐほどの大雪の中、ジャンプ台を飛び出した原田だったが、飛距離にして80mに満たないジャンプに終わった。茫然自失とする原田の姿にリレハンメルの悪夢がよぎる。続く船木も本来の実力を発揮仕切れず、1回目を終えた時点で日本はまさかの4位となった。
そんな失意の状況の中、日本チームにさらなる試練が襲う。1回目終了後、悪天候のため競技が中断されたが、もしこのまま競技続行が不能と判断されると4位が確定してしまうのだ。
そして、この時、競技再開の判断を託されたのが25名の日本人テストジャンパーだった。再開の条件は一人も転倒者を出さないこと。悪天候とプレッシャーの中、彼らは見事に誰一人転倒することなく、その結果、競技続行が決断された。テストジャンパーの中にはリレハンメル冬季オリンピック銀メダリストの西方の姿もあった。彼はK点越えの大ジャンプで競技再開のゴーサインの背中を大きく押した。
そうして約30分の中断ののち、再開された2回目。1人目の岡部が137mのバッケンレコードの大ジャンプ、続く齋藤も抜群の安定感で124mを飛ぶ。そして、「両足を複雑骨折してもいい」とまさに不退転の覚悟でジャンプ台を飛び出した原田。「落ちるな、落ちるな~」という日本中の悲鳴がいつしか「どこまで飛ぶの?!」という驚きの声に変わるほどの137mのバッケンレコードを決め、会場は大歓声に包まれる。
最後に船木がラストジャンパーとしてのプレッシャーをはねのけて、美しい飛翔を決めた瞬間、悲願の団体金メダルの獲得が決まった。降りしきる雪の中、抱き合って喜ぶ4人の姿に多くの日本人が涙した。
平成26年(2014)のソチ冬季オリンピック(ロシア)で私たちを再び歓喜の渦に巻き込んだ4人の日の丸飛行隊。その中には葛西紀明、竹内択(当時:北野建設、現:team taku)と並んで伊東大貴、清水礼留飛の姿があった。彼らは抜群のチームワークで、国別団体ラージヒルで銅メダルを獲得し、スキージャンプ競技としては、長野オリンピック以来16年振りとなるメダルを日本にもたらした。
その伊東、清水にさらに有望な新人も加わった雪印メグミルクスキー部は、新たな伝説を生み出すため、日夜厳しい練習に励み、これからも活躍を続けていく。
これまで数々の“企業スポーツの名門チーム”が様々な事情で惜しまれつつも消えていった。その姿は決して他人事ではなく、雪印メグミルクスキー部もまた創部以来、幾度となく存亡の危機を迎えた。しかし、今こうして70年目の節目を迎えたスキー部は、しっかりとした眼差しで未来を見据えながら北海道の大地に立っている。偉大なる先人たちがそうだったように、彼らもまた我々に様々な感動のドラマを届けてくれるに違いない。
1 | 1924年 (大正13) |
シャモニー(フランス) | |||
2 | 1928年 (昭和3) |
サンモリッツ(スイス) | |||
3 | 1932年 (昭和7) |
レークプラシッド(アメリカ) | |||
4 | 1936年 (昭和11) |
ガルミッシュ パルテンキルヒェン(ドイツ) |
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1940年 (昭和15) |
中止 | ||||
1944年 (昭和19) |
中止 | ||||
5 | 1948年 (昭和23) |
サンモリッツ(スイス) | |||
6 | 1952年 (昭和27) |
オスロ(ノルウェー) | |||
7 | 1956年 (昭和31) |
コルティナダンペッッオ (イタリア) |
36位 | 佐藤耕一 | |
8 | 1960年 (昭和35) |
スコーバレー(アメリカ) | 15位 | 菊地定夫 | |
22位 | 佐藤耕一 | ||||
9 | 1964年 (昭和39) |
インスブルック (オーストリア) |
70m | 26位 | 菊地定夫 |
90m | |||||
10 | 1968年 (昭和43) |
グルノーブル(フランス) | 70m | 47位 | 浅利正勝 |
90m | 26位 | 青地清二 | |||
11 | 1972年 (昭和47) |
札幌(日本) | 70m | 銅 | 青地清二 |
90m | |||||
12 | 1976年 (昭和51) |
インスブルック(オーストリア) | 70m | 29位 | 角田幸司 |
90m | |||||
13 | 1980年 (昭和55) |
レークプラシッド(アメリカ) |
70m 90m |
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14 | 1984年 (昭和59) |
サラエボ(ユーゴスラビア) 総監督:落合力松 |
70m 90m |
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15 | 1988年 (昭和63) |
カルガリー(カナダ) | 70m | 51位 | 田尾克史 |
90m | 52位 | 田尾克史 | |||
団体 | 11位 | 田尾克史、(佐藤晃、長岡勝、田中信一) | |||
16 | 1992年 (平成4) |
アルベールビル(フランス) | K90 | 14位 | 原田雅彦 |
K120 | 4位 | 原田雅彦 | |||
団体 | 4位 | 原田雅彦、(上原子次郎、葛西紀明、須田健仁) | |||
17 | 1994年 (平成6) |
リレハンメル(ノルウェー) | K90 | 8位 | 西方仁也 |
9位 | 岡部孝信 | ||||
55位 | 原田雅彦 | ||||
K120 | 4位 | 岡部孝信 | |||
8位 | 西方仁也 | ||||
13位 | 原田雅彦 | ||||
団体 | 銀 | 原田雅彦、西方仁也、岡部孝信、(葛西紀明) | |||
18 | 1998年 (平成10) |
長野(日本) | K90 | 5位 | 原田雅彦 |
9位 | 齋藤浩哉 | ||||
K120 | 銅 | 原田雅彦 | |||
6位 | 岡部孝信 | ||||
47位 | 齋藤浩哉 | ||||
団体 | 金 | 齋藤浩哉、原田雅彦、岡部孝信、(船木和喜) | |||
19 | 2002年 (平成14) |
ソルトレイク(アメリカ) | K90 | 20位 | 原田雅彦 |
K120 | 20位 | 原田雅彦 | |||
団体 | 5位 | 原田雅彦、(船木和喜、山田大起、宮平秀治) | |||
20 | 2006年 (平成18) |
トリノ(イタリア) | K90 | 18位 | 伊東大貴 |
23位 | 岡部孝信 | ||||
K120 | 8位 | 岡部孝信 | |||
42位 | 伊東大貴 | ||||
団体 | 6位 | 岡部孝信、伊東大貴、(葛西紀明、一戸剛) | |||
21 | 2010年 (平成22) |
バンクーバー(カナダ) | K90 | 15位 | 伊東大貴 |
37位 | 栃本翔平 | ||||
K120 | 20位 | 伊東大貴 | |||
45位 | 栃本翔平 | ||||
団体 | 5位 | 伊東大貴、栃本翔平、(葛西紀明、竹内択) | |||
22 | 2014年 (平成26) |
ソチ(ロシア) | 女子ジャンプ正式種目に |
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K90 | 18位 | 清水礼留飛 | |||
21位 | 渡瀬雄太 | ||||
K120 | 9位 | 伊東大貴 | |||
10位 | 清水礼留飛 | ||||
団体 | 銅 |
伊東大貴、清水礼留飛、 (葛西紀明、竹内択) |
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23 | 2018年 (平成30) |
平昌(韓国) | K90 | 20位 | 伊東大貴 |
31位 | 小林潤志郎 | ||||
K120 | 24位 | 小林潤志郎 | |||
団体 | 6位 | 伊東大貴、(竹内択、 葛西紀明、小林陵侑) |
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24 | 2022年 (令和4) |
北京(中華人民共和国) | HS106 | 27位 | 小林潤志郎 |
32位 | 佐藤幸椰 | ||||
混合 団体 |
4位 | 佐藤幸椰、(高梨沙羅、 伊藤有希、小林陵侑) |
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HS140 | 15位 | 佐藤幸椰 | |||
24位 | 小林潤志郎 | ||||
団体 決勝 |
5位 | 佐藤幸椰、小林潤志郎、 (中村直幹、小林陵侑) |