北海道酪農協同株式会社(北酪社)に社名変更(株式の民主化)
終戦を迎えて国内は混乱をきたしていた。
北海道の酪農をどう立て直すかが大きな問題となった。戦時体制の興農公社のような体制からどうするかという話題が各地から湧き起こってきた。
まず問題になったのは、株式の民主化だった。興農公社の株主は6者(北海道農業会(酪連は農業会の主要メンバー)、農林中央金庫、北海道拓殖銀行、北海道庁、明治乳業(株)、森永乳業(株))に過ぎなかった。
第一は、この資本金3,000万円を酪農民を中心とした3万人の株主で請合い、民主化する。
次に、興農公社時代、土地改良事業の一端として暗渠(あんきょ)排水用の土管製造や酸性土壌改良の石灰を作るなどの事業はもともと赤字であり、この事業を切り離して別会社にすることだった。
第三に、酪農民の要望を会社が良く聞き取り、会社の考え方を酪農民の末端まで周知徹底させる組織にしたい、ということだった。
形こそ株式会社であるが、資本も運営も実質的には農業協同組合となんら異なるものではなく、酪農家が生産牛乳を共同の施設で処理・販売し、酪農家と役職員が一体となり、共同友愛の精神を基調として、民主的に事業を運営すべきであるという酪連以来の信条は変わるものではなかった。
昭和22年12月24日、第九回臨時株主総会において、「北海道酪農協同(株)」(北酪社)に変更することを決議し、以降、農林中央金庫、北海道拓殖銀行などから株式の譲渡を得て、戦時色を一掃し、新しい構想と規模を持って北海道酪農振興へと再建の一歩を踏み出したのである。