日本における明治以降のチーズの発展(前編)
前回(2020年9月公開記事)は明治初期に日本で最初にナチュラルチーズ(NC)作りを学んだ人々について紹介しました。
その後、紆余曲折を経ながら日本におけるチーズは少しずつ進展し、現在は日本の工房製手作りチーズは海外コンクールにて優秀な成績を収めるまでに成長しました。今回はその成長の軌跡をご紹介します。
チーズ製造の変遷
七重開墾場にて迫田喜二や湯池定基にレンネット凝固(注、凝乳酵素であるレンネットを添加して乳を凝固させる方法。アジアの伝統的チーズは酸凝固が主流ですが、ヨーロッパではレンネット凝固が主流です。)と熟成を特徴とするヨーロッパ型のチーズ製造を指導したエドウィン・ダンは真駒内放牧場でもチーズの製造を指導しました。1877年に東京で開催された“第1回内国勧業博覧会”に真駒内放牧場はチーズを出品し好評でした(1)。当時、チーズはまだ日本人には馴染みがなかったのですが、在日外国人には好評で1885年まで製造が継続されました(2)。
1900年にはトラピスタ修道院で“ポー・サリュー”チーズ(半硬質。オレンジ色の表皮で、内部は黄白色のバター様組織。丸みのある風味)が製造され、農務省管下月寒(ツキサップ)試験場でもチーズが製造されました(1)。また、1911年に虻田郡倶知安村の大石平五郎(出自不明。どこでチーズの手ほどきを受けたのかも不明)がチーズを製造したとの記録(3)があることから、北海道内では複数の人々がチーズ作りに挑戦していたことが推測できます。1916年には北海道煉乳(株)が小型のブリックチーズ(半硬質のアメリカ原産チーズ。レンガのような形状であり、圧搾にレンガをもちいたことからこの名がついた(1))を製造し、函館の桟橋食堂や札幌市内のビアホールでつまみとして販売しましたが臭くて食べることができないと不評だったそうです(4)。
1918年に開催された“開道五十年記念北海道博覧会”に北海道煉乳(株)は北海道産のエダムチーズとブリックチーズを出品し、エダムチーズが銅賞を得ました(5)。エダムチーズは売上が比較的多いと記載されており販売実績があったと思われます。エダムチーズは塩味が強いが香りは良好だったことが評価されています(6)。一方、ブリックチーズは「加熱すると組織が軟弱になり過ぎ、発酵による穴が多く青かびが生え風味が損なわれている。包装にも見るべきものはなく更なる研究が必要」と酷評でした(6)。北海道煉乳(株)は1914年に橋本左五郎の主唱で札幌に設立され、1927年には大日本乳製品と改名し、1934年には明治乳業に合併されました(4)。
米国ウィスコンシン大学付属農場で酪農技術を学び、後に北海道製酪販売組合(雪印メグミルクの前身)を創立した宇都宮仙太郎に見込まれた出納陽一は、デンマークにおける農業を学ぶために留学し、1923年に帰国後、早速上野幌に出納農場を開設しました(7)。ここにチーズ製造設備も設置しハードチーズを作っていました。チーズ製造施設は1925年に北海道製酪連盟(酪連)設立と同時に酪連に譲渡され、牧場は宇都宮仙太郎との共同経営となる「宇納牧場」となりました。その後、酪連は中央工場(札幌)にて手作りによるブリックチーズとチェダーチーズの試作を開始しました(1)。
1927年になると森永乳業も三島工場にてチーズの開発(注、NCかPCか不明)を始めました(8)。酪連もデンマークより輸入した小型充填機を用い、国産初のプロセスチーズ(PC)「風車印」を札幌五番館デパートにて発売しました(1)。(注、文献1では「風車印」は昭和3年頃の出来事を記した項に国産初のPCとして紹介されていますが発売年については明確な記載はありません。一方、「牛乳と日本人」(雪印乳業株式会社広報室編、1988)には「風車印」の発売は昭和7年と記載されていますが、NCなのかPCなのかは不明です。)さらに、米国でチーズを学んだ茨木丈夫が酪連にてブリックチーズの試作を開始しましたが、満足できるものではありませんでした(9)。酪連は1929年に副原料を添加したNCを加熱溶融したピメントチーズを製造販売しましたが、保存中に水分が分離し1年で製造中止となりました(1)。この年、小岩井農場がチーズの試作(注、NCかPCか不明)を開始し(10)、1932年には明治乳業両国工場でもPCの製造を始めました(4)。森永乳業は1933年に胆振(いぶり)工場にスイスのクスナー社より最新設備を導入し、同年9月にカートンタイプ(225g)と6Pタイプを発売しました(8)。
酪連はデンマークに留学しチーズ製造を学んだ藤江才介を採用し、1932年にチーズ専門工場として遠浅工場を建設して帰国した藤江を初代工場長に迎えました(9)。
遠浅工場は縦型殺菌機、サーフェスクーラー(注、牛乳を冷媒で冷却したパイプ表面に流し冷却する装置)、チーズバット、縦型加錘式プレスなどを設置し、醗酵室には空調設備を導入してゴーダとエダムチーズの試作を開始しました(1)。
これらチーズはプロセスチーズ原料として藤江が採択したNCで、1934年には酪連もJOHA(ヨハ)社より輸入した乳化剤を使ってPCを製造しました(1)。
明治乳業はエメンタールチーズが“道産五十年記念北海道博覧会”にて受賞した北海道煉乳(後に、大日本乳製品と改名)と1934年に合併し、1936年には新田帯皮製造所(新田ゼラチンの前身)の止若(ヤムワッカ)煉乳工場(足寄郡陸別町)を買収しました(4)。買収時の主要製品に金鶏印チーズおよび金線印チーズが含まれていました。このようにチーズ製造に実績のある会社を手に入れたものの、これらのチーズ製造技術をどのように活用したのかは不明です。1941年、太平洋戦争が始まると徐々に物資が不足しはじめ、チーズ製造がままならなくなり、各社とも製造を縮小、あるいは製造中止に追い込まれました。戦後、乳業メーカーはチーズ製造体制を整備し、1950年には様々な新製品が発売されるようになりました。1955年には野澤組がレンネット、乳化剤、チーズカラー(注、着色料)の輸入を開始しました(11)。
日本では1987年まではPCの方がNCより消費量が上回っていましたが、その理由として第1には冷蔵流通が行き渡っていなかった日本では日持ちの良いPCの方が流通させやすかったこと、第2はNCの風味に慣れていない日本人にも食べやすい風味を組み立てられるPCが好まれた、そして第3として1962年にスタートした学校給食にPC10gを提供する試みを行ったことなどを挙げることができます。しかし、10gに切り分ける作業を担った学校給食室の負担が大きく本格的に提供することはできませんでした。そこで雪印乳業はスイスのクスナー社から設備導入し、1965年から10gの個包装プロセスチーズを学校給食用に製造し始めました(9)。
その後、乳業メーカー各社が設備導入し、品質の高いプロセスチーズを安定的に
大量生産できるようになったことは皆さまもご存じの通りです(年表参照)。
製造技術の進展
1877年に書かれた「乾酪製法記」(チーズクラブ 2020年9月1日 参照)では乳酸菌の役割を知らず、酸度やpHの概念もまだなく、生乳の品質や温度を制御できず安定したチーズ製造が難しい様子が書かれています。明治末期(1910年)に発行された「牛乳及製品論」(12)によれば、乳酸菌をスターター(注、チーズ製造に用いられる微生物)として用いることを推奨し、レンネットを仔牛第4胃から抽出することも記載されています。しかし、豚の胃より凝乳酵素を抽出することもまれにあったようです。なお、太平洋戦争の終戦直後、海外からのレンネット入手が困難なうえ、仔牛第4胃の入手も不十分であったため、豚の胃から抽出したペプシンを凝乳酵素として使用することも検討されたようです(1)。海外では豚ペプシンを用いたチーズに関する研究論文もあり、カゼインに対する作用は豚ペプシンと牛レンネットではやや異なっており、カード組織(注、硬さや状態)も異なることが報告されています(13)。
チーズ乳は清潔な環境で搾乳するものの、低温に保存するのではなく、室温保存を勧めています。生乳の衛生面からは不可思議な説明ですが、室温保存の方が「乳酪」(注、辞書には乳製品の意とあるが、ここでは乳成分の意味か?)を“乳汁中に保存するに便なる”ためと説明されています(12)。現在では、牛乳を低温保存するとカゼインミセルからβ-カゼインが脱離することが明らかになっており(注、乳中では主要たんぱく質であるカゼインが凝集し小粒子として分散しています。この小粒子をカゼインミセルと呼びます。カゼインにはαS1、αS2、β、カッパの4種類があり、このうちβ-カゼインの一部が牛乳の冷却中にカゼインミセルから脱離します。しかし、チーズを製造する場合は牛乳を温めますから、脱離したβ-カゼインは再びカゼインミセルに戻るので実用的な影響は殆どありません。)、当時そのことを経験的に知っていたのかもしれません。チーズ乳の温度管理が難しく相当気を遣うこと、滴定による酸度測定法があるにも関わらず、実用的には乳を舐めてその味から自然発酵の程度を知り、乳酸菌添加量や凝乳酵素の添加量を判断するなど、熟練者でないと安定なチーズを作れない状況でした(12)。
一方、1919年に発行された「乳製品製造法」(14)には、従前どおりチーズ乳を清浄に扱うことが記されていますが、製造技術上の顕著な新知見は見当たりません。しかし、チーズの種類に関する説明が大幅に増え、製造器具の紹介も詳しく記載されています。
デンマークに留学しチーズ製造を身につけた藤江才介は熟成室をヨーロッパのように地下に設置しても日本では湿度が高く地下は不適であり、むしろ2階の方が適していることに気付いて2階を熟成庫としています。また、乳質の悪さに手を焼き、乳質改善に取り組みました(1)。
日本では飲用乳の殺菌が義務化されたのは1927年(15)であったにも関わらず、ヨーロッパに習い無殺菌乳からチーズを製造していました。しかし、無殺菌乳では安定なチーズ作りが難しいことから、藤江は生乳を加熱(68℃達温後即時に冷却)することにしました(1)。この加熱条件は殺菌というよりサーミゼーション(現在では63℃30分間の加熱が低温殺菌となっていますが、それより温和な条件で乳を加熱すること)に近い可能性もあります。ヨーロッパの製造方法をそのまま真似するのではなく、それぞれの工程の意味を科学的に考え日本に適した工程条件を考案した点は特筆すべきです。しかしながら、チーズ乳の加熱処理は遠浅工場だけで行われ、チーズ乳の殺菌が日本で一般的になったのは1950年(昭和25年)になってからのことでした(1)。
1955年頃から乳業メーカーや大学におけるチーズおよびその構成成分に関する研究が増え、同時にチーズに関する製造技術や新製品開発が盛んになりました。このような研究で日本独自のチーズ製造に関する研究も行われ、東北大学の中西武雄教授らは麹菌であるAspergillus oryzaeを用いて熟成させるオリーゼチーズを開発しました。1963年、雪印乳業はこの研究成果を商品化すべく研究を引継ぎ(1)、また協同乳業は松本工場にオリーゼチーズの生産設備を導入しました(16)。オリーゼチーズは熟成期間を短縮できる利点がありましたが、残念ながら風味に今一つ欠陥があり商品化には至りませんでした(1)。
プロセスチーズ製造技術としては1960年以降スライスチーズが登場し、パンにのせる、野菜などを巻くなどPCの利用範囲が広がり消費拡大に貢献しました。また、1971年にはとけやすいタイプのPCが森永乳業や雪印乳業から相次いで発売され、チーズの食シーンが広がりました。
さらに、1991年に森永乳業から発売された「切れてるチーズ」は切断されたPCを互いに付着しないように包装した製品(8)で画期的な技術でした。
一方、ナチュラルチーズでは雪印乳業が1950年にブルーチーズを発売し、1962年にはカマンベールを発売しました。
さらに、1992年には明治乳業(20)とよつ葉乳業(21)もカマンベールを発売し、カマンベールの市場が活性化しました。
また、1982年に雪印乳業から発売された「ストリング チーズ」はパスタフィラータ製法を応用し、“さける”という特徴が酒のつまみ、サラダに混ぜる、子供のおやつなどに適しており現在でも広く利用されています。
TEXT:Shunichi Dosako
引用文献
- 1.雪印乳業チーズ技術史、1985
- 2.加茂儀一、「日本畜産史」食肉・乳酪篇、法政大学出版局、1976
- 3.北海道農会報 11(no123), p121, 1911
- 4.明治乳業50年史、1969
- 5.開道五十年記念北海道博覧会事務報告書、1920
- 6.開道五十年記念北海道博覧会審査報告書、1918
- 7.和仁皓明、「牧野のフロントランナー」、デーリーマン社、2017
- 8.森永乳業100年史、2018
- 9.雪印乳業史 第1巻、1960
- 10.小岩井農場100年史、1998
- 11.野澤組100年史、1981
- 12.池田貫道、「牛乳及製品論」、成美堂、1910
- 13.Eino et al, J. Dairy Res. 43: 113-115, 1976
- 14.高屋鋭、「乳製品製造法」、長隆舎、1919
- 15.藤原真一郎、酪乳史研究 no13: 5-7, 2016
- 16.協同乳業50年史、2003
- 17.吉田全作、「吉田牧場」、ワニブックス新書、2010
- 18.畜産の情報, 2019
- 19.石原哲雄、酪乳史研究 no10:12-21, 2015
- 20.明治グループ100年史、2017
- 21.よつ葉乳業30年史、1997
- 22.内橋正敏、酪乳史研究、no10: 22-25, 2015
- 23.中央酪農会議50年の足跡、2013
- 24.栢英彦、「日本におけるチーズ製造の歴史的発展」、J-milk HP、2012
- 25.C.P.A.通信、Vol 1, 2000
- 26.C.P.A.通信 Vol 44 2009
- 27.C.P.A. 通信 Vol 77 2014
- 28.共働学舎新得農場からの私信、2020
- 29.C.P.A.通信 Vol 69 2013
- 30.C.P.A.通信 Vol 81 2015
堂迫俊一さん 農学博士(元・雪印乳業(株)技術研究所 所長、現・(NPO法人)チーズプロフェッショナル協会 顧問)
Profile:1974年雪印乳業株式会社入社。以来、大阪工場、技術研究所、研究企画部、栄養科学研究所、育児品開発部などを経て、2002年技術研究所所長に。2007年定年退職後、雪印メグミルク(株)ミルクサイエンス研究所主事としとして勤務。その後は(NPO法人) チーズプロフェッショナル協会顧問、(一社)Jミルク 酪農乳業史料収集活用事業推進委員を務めた。
著書:「チーズを科学する」(共著)チーズプロフェッショナル協会発行 幸書房 2016年11月11日発売。「新版 牛乳・乳製品の知識」 幸書房 2017年10月25日発売。
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