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食の不安についての生産者の思い |
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牛肉を作っている自分の立場として、今、肉牛に関して餌の問題など、たくさん問題が出ていますけれども、まず私たちがやらなければいけないことを忘れていたと思います。餌に関しても、餌屋さんに任せきり。酪農の方達も、量さえ出ればいいという、量に対しての追及しかなかったと思う。そして、牛を大切に長く飼うということをしなかったんじゃないかな、と思っています。だから、牛の生命を粗末にしていたのではないか、一産か二産か、せいぜい三産で入れ替えをしている人が多かった。昔は十産も十五産も取れたはずなんです。一頭の牛をそれほど大切に扱ってきたはずなんです。目先の利益だけで生きてきてしまったことを、今改めて考えさせられます。 |
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今いろいろ農薬の問題とか騒がれていますけれども、同じ生産者として、一番考えるのは、信頼が欠けたら、この世の中どうなってしまうのかということです。私たち自身、農家も、これくらい良いかなという甘い考えではなくて、精一杯、信頼の持てる品物を作りたいと思っています。 |
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今まで農薬とか肥料ですとか、そういうのは農協指導のもとでやってきたんですけれども、雪印の問題が生じてから、安全性というのは何だろうと自分で疑問を持ちまして、自分で作っているものを、消費者のみなさんに「安心して食べてください」といえるだけの知識をもちながら農業に取り組んできたのかな、と思ったら、疑問だらけです。知らないことだらけなんです。これは作る側としてももっと勉強しなきゃいけないと。このごろ産直を始めまして、雪印の事件のおかげで、信用、信頼ということを強く教わりまして、人を裏切ったらどういうことになるかというのを、申し訳ないですがみなさんを通して学ばせていただきました。食品の安全にしても環境問題にしても、これからはしっかりと自分自身で確かめながら、仲間と勉強していきたいと思います。 |
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農薬問題も明日はわが身です。自分が作っている以上は、責任のある、顔の見えるものをお届けしたいと思って、今までもずっとやってきました。文章を中に入れて「今年の気候状態はこんな感じでこういうものが獲れて、自分たちが満足してきちんと送りました。」ということを書いていたんです。けれども、息子が「お母さんたち、顔が見えることをやったほうがいいよ」ということで、今年からデジカメで、主人と私がりんごを獲ってる姿を写してお手紙を書いて送りましたら、その反応たるやすごいもので、消費者がものすごい信頼というか信用というか、顔が見えるというのはこういうことなんだな、というのを一番学ばせていただいたのが、去年でした。 |
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子種をつけて子牛が生まれて、それに良い種が残ってるか確かめるには5年近くかかるんですよ。この牛は良いものを伝えていく牛だから残そうって確信が持てるには、その子が生んでまた生んで、初めて、母親の良い血が残っていくんです。そういうサイクルで飼っているんですよね。うちとしても絶対にBSEは出したくないし、もしそっくり変えるということになったら、とても元は取れない。今まで10年20年かけて良い牛の系統を残してきたからこそ今の経営を続けられるのであって、これをぱっと変えるというのは、とても出来ないことだと思います。 |
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生き物を育むことについて |
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私たちは今、冬の間だけ、10月の半ばから6月の半ばまで畜舎で牛を飼っていま す。それ以外は、春の4月から6月くらいに赤ちゃんを産んで、子牛を連れて山に入ります。ブナの原生林なんですけれども、草地とは違ってすごい傾斜ですし、ほとんど牛の姿が見えない竹やぶの中で牛がすくすくと育って、どこの牧場よりも自慢できる牛の姿になって、秋に帰ってきます。初めて放牧をやってもう25年になりますけれども、自然に返してやったら動物はこんなに長生きする。一番最後まで産んだのは十五産の牛がおります。ですから1頭の牛が、自然の中でしたら15頭も産むことができる。そんな、たいへん原始的な仕事ですけれども、安全な食べ物を食べて太陽にあたっているから、こんなに牛は元気なんだと思います。牛がどれほど人間を助けてくれているか知れない。感謝を常に忘れてはいけないと思っています。 |
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私が一番伝えたいことは、生き物を飼うことによってすごく癒されることがあるんです。牛は見かけに寄らずすごく臆病なんです。臆病なくせに我慢強くて。その我慢強さは、もう泣きたいくらい我慢強くてね。忘れられないことは、1頭の牛が足を痛めたのが分かったんです。それで獣医さんに抗生物質を注射してもらって、古い厩舎に移したんです。ここだったら十分に広いから寝起きが楽だからと思って。そしたら足は痛そうだったんですが、乳管持って行けばぱっと立つから、ああ大丈夫だなと思っていたんです。どれくらい搾ったか覚えていないんですが、ある朝すごい搾ったのに、夜行ったらもう立てなくて、呼吸も荒くて、どうしたんだろうと思って、その夜は遅かったので、明日獣医さんに見てもらおうと思って、でも急に足が腫れてきちゃったものだから、家にあったアロエを夜遅くまで取り替えてました、熱を取るものだから。夜中になって、仕方ないから寝るかと思っていたら、明け方でした。すごく悲しい声がしたんです。モーでもなくオーでもなく。私、あの牛だって思って飛び起きました。その時、主人が「あっ」て言うから、「どうしたの」って聞いたら、「死んだ」って。それで「えっ」って思って飛び出して行ったら、もう遅かったです。獣医さんに解剖してもらったら「ひどかったよ、足が半分腐ってて、心臓まで行ってたよ」って言われてびっくりしました。本当に我慢強いんです。牛はおなか空いたときとか、畑から帰ってくると一斉に鳴くんです。でも具合が悪いときは声を出して鳴きません。涙はぼろぼろ出るんです。けれども、声を出さないんですよね。そんなに具合悪かったら鳴けばいいのに、と思っています。それが私がそういう声を聞いた最初だったんですけどね。それからは、ちょっと何かあるとすぐにおかしいんじゃないかと思って見てやっています。 |
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黒牛が流産というか、1ヶ月も早くお産するとまず助からないんですよね。それもやっぱり夜中でね。行ったら、親は死んでたんです。まさか1ヶ月も早く産むとは思わなかったから、古い畜舎で気づかなくて。ちっちゃな子がもそもそ動いていてね。ああこれはだめだと思って。ひとまず牛を片付けなきゃいけないなと思って。でもそのまま死なせたらかわいそうだと思って、死水といいますか、スポイトで水をやったら、飲んだんです。そういうのが何日も続いて。息子も夫も、もうだめだと言うんですけれども、いつも私は助けようと思って、生きると思って、なんとかなると思って、死ぬまでそのまま死なせちゃかわいそうだと思って。毎日見に行きました。そしたらその牛も2ヶ月半たったとき、獣医さんが、あの牛生きてるのかってびっくりして、もう大丈夫だからって言われて。本当に良かったと思いました。私は、どんな時代がきても、牛飼いをやめるつもりはないんですけれども、そういう生き物の、本当に言葉で言い表せないものがあります。そういう意味でも、酪農家は育ってほしいというか、後継者にそういう感動を味わって、生き物を育てていってほしいし、酪農が活発になって生き返ってほしいと思います。 |
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一昨年イギリスの農村をぶらぶら旅して回ったんですよ、2週間。その時に、この国って何だろうなって感じてきたのを原点に、放牧というものがあって、放牧している農家のみなさんに対して、報奨金みたいな感じでお金が戻ってくる国のシステムなんです。だからとっても農家を大事にしているなって感じてきたんです。それぞれのみなさんが、あれだけBSEが出て大変なときに、胸を張って牛を飼ってるんです。行く直前に口蹄疫なんかも出て、ひょっとして農村なんか入れてくれないんじゃないかという気がしてたんだけど、私たちが見せてくださいと言ったら、入ってくださいと、牛を搾乳しているその場さえもいさせてくれたんです。この温かさはなんだろうと思って。普通、口蹄疫が出たら、もう部外者なんて立ち入り禁止ですよ。足から全部消毒されて入れてくれない。きっと入れてくれないと思ったんですが、せっかく日本から来たんだから、全部見ていきなさいって言ってくれて、全部入れてくれたんです。あの心の広さは何なんだろうと。私はそれをみなさんに伝えたいんです。そして現場の中で日本の国内にも心の広い農家のみなさんがたくさんいますよ、と。そして、自然の癒す力の大きさということ、人間も癒されるんです、その現場に来たら。だからそれを体感して、また、そのチャンスを作って、作らなかったら絶対できないですよ、待ってたらダメです。是非チャンスを作ってください。それで農家へどんどん勉強にきてほしい。前向きな農業をやってる方、ここに来ている方はみんなそうですよ。みんな目を輝かせて農業をしている方達なんですから、そういう中に来て勉強してください。まず社長さんからだね、現場へ来て。 |
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消費者の方々に伝えたいこと |
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私はこの現場に立って食べ物を作り出していて、すべてが安全だなんて絶対言えないと、生産している立場で言っています。食というのはリスクがあるんですよ。そのリスクをどのくらいみんなが共通して背負っていかなきゃいけないのかということまで、消費者に私たち現場の声をきちんと伝える、それをしていかないといけない。安全な食べ物ばかりではありませんということを。必ず、食べ物の中にはリスクがあるんだということも、一緒に共有していきましょうと。そのリスクを最小限の範囲にとどめるためにお互いが協力しあって切磋琢磨するんですよということを伝え合っていくようにしていきたいと私は思います。ですから家の農産物に関しては、こんな農薬を何月何日まで使っていますよということをきちんと伝えます。農薬なしで果実はできません。正直な話できないんですよ。それがなぜできないかということは、ここへ来て見てくださいということを伝えます。そうするとみなさんは、本当だこういう立地条件で無農薬でできるわけがないということも納得してくれます。ですけれども、その(農薬を使うことに伴う)危険性を自分の努力によって下げたいということも思っています。そういう風にきちんと情報を開示する、そういう姿勢も企業側はこれから必要じゃないかと思います。安全ですよと伝えるだけじゃなくて、こんなリスクもあるかもしれません。と伝えることの方が本当であるということも、今、少しずつ、消費者はわかってきているんです。だからそういうことにも挑戦していってほしいと思います。 |
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生産者は今まで本当のことは隠してきた。それを商品として食品を作る側も本当のことを隠してきた。そこがまずかったんじゃないのかなと思います。それが、お金を出せば安全は買えるものだという錯覚を起こしてきた。でもそうじゃない。すべてにリスクは伴うものだということ、それを地道でもいいから、ここにいる人たちがコツコツとやっていかなきゃいけない。今回、これをやったことで、ここに参加された皆さんが、そういう意識、品物に対する意識も変えていかなきゃいけないし、それをきちんと伝えていかなきゃいけないし、今回は、微力ですがこういう機会を持たせていただいたことは、私自身感謝しています。お互いに、これから、成長しあいましょう。 |
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雪印へのご意見 |
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(対話会に参加してくださったお一人の方のことを私たちにお話してくださいました。)この方は年金暮らしの生活をしていらっしゃる方なんですが、「私は昔から雪印を愛用している」とおっしゃって、その年金の中から100株運動のお金を喜んで出してくれたと聞いて、そういう方がいるということを肝に銘じてほしいなと思います。そんな思いで雪印を見守っているんですよ。 |
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今日はとても不思議な気持ちでここに来ました。かつては雪印乳業に世話になってきました。ここに来る間、とても複雑な気持ちでした。主人に、雪印との対話会に行ってくると言ったら「今更・・」という言葉が返ってきました。「今更」の意味は、本当に「今更」ということです。昭和30年代、小諸に雪印の方が見えて酪農を広めたそうです。そして、そのおかげで生活も楽になり、将来、牛を飼って北海道のような牛飼いになろう、それが主人のプロポーズの言葉でした。それから雪印に何年か色々なご指導を頂いて、私たちもある時期までは、とても良い夢を見させていただきました。正直「今更・・」という意味は、ここにいるみなさんに伝わるかどうか分かりません。雪印の方がいろんなことを指導され、畜舎の建て方、牛の飼い方から始まって、一緒に夢を見られると思っていました。仲間の人達も、本当にがんばって何度か賞状ももらい…。私もいつか、土地はないけど、北海道の酪農家みたいにがんばりたいと思ってがんばってきました。でも、とても信じられないことがいくつも続きました。牛乳乳製品・農作物の自由化が始まったときから、大きな畜舎を建てる家が増えるようになったんですが、ちょうどそのころからでした。雪印側から、色々な厳しい条件が入ってきました。乳質の検査、それは当然のことなんですけれども、利潤が少ないということで、乳価の据え置きは非常に厳しいものでした。生産者と夢を一緒に叶えようって、当時はきっとそういう出発点で、北海道の酪農家の夢も一緒に背負って一緒に出発した企業が、いつか、そういう人達を土台にして利益を伸ばし、そんな気がしてなりません。私たちは初めは雪印の専門農家として、酪農組合として出発して、組合に入り、今は県の経済連に入っています。そのために、今回の雪印の崩壊についてさほど影響はありませんでした。でも、今でも自分の中では、消えてしまった雪印は今でもすごく輝いているんです。それは自分たちが送った青春時代に夢を見させてくれた企業ですから、だから絶対に消えてほしくなかった。どんなに小さくても雪印のプラントは消えてほしくなかったんです。メグミルクは全農のバックアップだと聞いています。全農は農業のブランドです。今度こそ酪農家の本当の味方になる、本当の企業によみがえってください。 |
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昨年の1月、雪印が事件を起こしたときに、働き者だった父親を亡くしまして、雪印同様私も厳しい一年を過ごしました。私たちだけでやっていくということで、雪印同様、危機に瀕した後には次に発展の芽があると頑張って、今日ここに来ました。父が元気なときにはヤギを飼っていまして、忙しさで世話ができなくなって手放したんですが、あと2〜3年経ったら子供たちだけでも飼えるようになると思うので、その準備として今、子供たちはニワトリとかウサギとかを飼っています。自分の家でヤギの乳を搾って飲みたいと思って、そういう気持ちでやっています。ヤギの出産や乳搾りに立ち会ってきて、母親として自分で子供を産んで育ててきて、やはり親は子に自分の乳を与えたいために乳を出すので、それをもらって牛乳ができて、それをまた加工して雪印はこれから仕事をしていくのですから、やはりその辺の母親の気持ち、つまりどういう風にして乳ができて、子を離す時に親はどれほど辛いか、そういう気持ちも含めてよく考えてもらいたいと思います。そしてこれから新しいチャンスを与えられたという風に前向きに捉えてもらって、日本農業全体というか日本をもっと豊かな社会にしていくためにできることが、危機に瀕した会社だからこそあるんじゃないかという風に思っております。 |
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今回雪印の問題が起きたとき、私は田舎の仲間で、もう私たちが歯止めをかけないとどうにもならないんじゃないのかという思いがして、じゃあ私たち女性が、わずかな力しかない人間ができることはなんだろうということで始めたのが、この100株運動なんです。少ないけど株を買って、株価を見ていくことによって、日本の経済の仕組み、社会の動きを見るという目を養うというのも大事だろうと。ただ現場で黙々と働くだけじゃなくて、もっと政治にも経済にも、農業女性たちが目を向けていかなきゃいけない時代になっているんじゃないかという気がして、この100株運動を始めたんです。雪印は、新しいスタートにあたって、ぜひ北海道で立ち上げたスノーブランドという基本だけは絶対に忘れないでください。それで皆さんが作っているもの、それを製造ラインから消費者のところへ流しているものというのが、命と食をつなぐ原点だというのを忘れないでほしいと思います。私自身も、もっと食べるということ、命をつないでいくということに、きちんと向き合う時代なんじゃないかなという思いがしました。 |
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生産者のみなさんがあんなにも明るく、元気であったことがとても印象深いです。「自分達の生活も楽しく豊かに、誇りを持つために、日々自信の持てるものを作り、また、前進するために色々考え、勉強し、実行している」と、決して自分の満足だけではなく、美味しいものを食べ、健康に、幸せになってもらう事を第一に、そして、それが自分達にとっても健康に、幸せになることだと言い切っていました。この自信とパワーは、出席されたみなさんが自分の納得した原料、資材を仕入れ、自分の培った技術で生産し、お客様の顔が見える販売方法を行っているからこそ生まれるものだと思います。自分の手で作ったものを責任持ってお客様に引渡すという事は、このような事だと改めて思い、当社にとって非常に学ぶべき点だと感じました。
また、「食品にはリスクがあり、リスクが発生する理由をお客様に知らせる、理解してもらうことが大切」ということもおっしゃっていました。食品を製造販売する者として、その商品の情報を出来るだけ多く開示し、お客様の納得いく良い商品を選択していただき、販売者、お客様がお互いにリスクを認識していること大切だと感じました。
さらに今回の対話を通じ、当社の商品を買っていただいている方々の代表としてのご意見を聞けたかと思います。内容によっては、企業としての「そうは言っても・・・・・・」という事と、一般のお客様が求めている事のギャップはどうしてもあるかと思います。「そうは言っても・・・・・・」は企業の言い訳にしかならないし、この「そうは言っても・・・・・・」という事を少しずつ解消していく事が、今、求められており、今の当社にしか出来ない独自性になっていくようにも思います。
全体を通じ、当社の責任の大きさを実感し、また、同じ食品を扱う者としての厳しい目と、今後の当社の存在に対する期待も感じました。
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生産者のみなさんがとても大事に慈しみながら食べ物を作っておられることが分かりました。私達雪印も、最初に会社ができた時は間違いなく酪農家資本の会社だったわけです。どこでどうこの会社の形態が変わっていったのかという議論をこの半年間してきました。私たちがスタートした時には、「酪農は土の力を健やかに豊かにし、その上に生きるあらゆる命を健やかにしてくれる」という「健土健民」という創業の精神を持っていました。具体的には、文字通り「健康な土の元で健康な牛が草を食む、健康な牛が乳を出して私たちが搾って、健康な生活を過ごすことができる」ということだったのが、その精神を、私たちは本当に今の時代に合わせて解釈をしてなかったんじゃないかという反省を大いにいたしました。それはどういうことかというと、私たちは本当に生産者の方々のご苦労ですとか思いですとか、慈しんで牛を育てて牛乳を生産しているその苦労を分かっていたのかということです。私の叔父も北海道にいて、その環境の中で育ったので自分自身では知っているつもりだったんですが、メーカーの中にいてそういうことを忘れていたんじゃないかと思います。そういう大事な原料を大事に扱い、大事に作っていく、大事に運んでいく、売っていくという、そういう基本的な姿勢が私たちにかけていたんじゃないかと思います。そこで、もう一回原点に戻って、また1月1日から新しい会社、バター・チーズ・マーガリンの会社になりましたので、1月末に新たな企業理念とビジョンを発表させていただきました。今、これを全従業員できちんと確認しましょうということになり、1月から2月にかけて、活動しているところです。その原点にある、私たちは食に携わるものとして忘れてはいけないことを、今回の対話会で改めて認識させていただきました。有難うございました。
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雪印ブランドは雪印のものに非ず
この集会で参加者の方々からとてつもない“エネルギー(やる気)”を頂戴した。話し合いを進めていく度、一歩引いていた自分がどんどん前に出ようとしていた。感じたことは、@参加された皆さんは学習意欲に富み、当社に対する穿った先入観は無く、話の中から事実を探ろうとしている。A「雪印に対しては厳しい視線を…」といいながらも、当社のこれまでの企業活動を「貢献」であると認めてくださり、言葉の節々に“愛”が滲む。この方々は、雪印の再生を本当に望んでいると感じた。
これを書いている今、『“雪印”というブランドは、社会のものであり会社や社員のものでは無い』と心の底から思っている。それをもとに戻すのは、落とした者の義務であり、その際には多くの人の協力が必要不可欠である。(日々の営業活動も重要であることは言うまでもないことであるが、“雪印”として再生するのであれば…)
この期に及んで、年金くらしの僅かな生活費の中から、当社の株をご購入いただいている、というご年配の方がおられた。彼女は自分自身が雪印に世話になったと言い切られた。このような人が現実として長野の地におられることに驚き、感動した。この集会に参加させていただいたことを感謝している。参加する行為こそ自らを鼓舞する“賛歌”であることをあらためて痛感した。
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食に対する「安全」「安心」には消費者以上に気を使っていることを肌で感じた。また信用、信頼がいかに大切かをこの対話会で痛切に感じた。
今後このような会には積極的に参加し様々な人たちの生の声を聴き、自分の業務に繋げて活きたいと思います。参加させていただき感謝申し上げます。
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出席された方より『小さなまち、たがやす人』という木村尚三郎氏の小布施町での講演録のご本をいただきました(文屋発行)。拝読してこれは「まち」という地域について語られた本であると同時に、企業に置き換えてもとっても全く当てはまると思いました。「ニコニコ」「くらしといのち」「共助」「共に幸せ」「人好き」などが大切であることを痛感しています。有難うございました。
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