北海道酪農の黎明

明治2年、北海道開拓使がおかれ、三代目長官、黒田清隆のもと、初めて北海道農業の基本方針がたてられた。
米国から開拓使顧問、ホーレス・ケプロン氏を招聘(しょうへい)した。
ケプロンは、北海道の寒地には米作りは不適当として、畑作有畜農業を提唱した。ケプロンの献策により「開拓使十ヵ年計画」が策定され、明治5年から実施に移された。
北海道の開墾は、職を失った武士や、農家の次男・三男、疲弊した農村などから新天地を目指す人々の受け皿となった。

明治8年、ケプロンの推薦により来日した、エドウィン・ダンは、真駒内で広大な大地を開墾して飼料作物を作り、大規模な牧場を設け、畜産農業普及の基礎を作っていった。
北海道酪農創世期におけるダンの功績は、多大なものがあった。
また、明治9年札幌農学校(現北海道大学)の教頭として赴任したウィリアム・スミス・クラークは、北海道農業の指導者を育てた。「青年よ大志をいだけ!」は、クラークが残した有名な言葉である。
その後、明治19年の「北海道土地払下規則」や、明治30年の「北海道国有未開地処分法」などの制定により府県富豪や華族の投資により大規模な民間牧場が次々と誕生していった。
一方、このころ、札幌や函館の都市周辺には、牛乳搾乳業者が続出し、牛乳の販売を始めた。

明治初年から20年ころまでが「官営畜産時代」、明治20年から末までが「地主的大牧場並びに搾乳業者時代」で、これに続く大正時代は「練乳事業ぼっ興期」である。
練乳事業は、乳業の中でも早くから発達し、北海道練乳、極東練乳、森永製菓の三大会社が激しい競争を続け、各社とも酪農の育成に努めたので工場周辺の近村には、乳牛を飼育する農家が際立って増えていった。
大正末期には、この練乳会社と酪農民の軋轢(あつれき)が高まり、他の要素もからまって「北海道製酪販売組合(酪連)」誕生のきっかけとなった。

練乳事業の台頭、政府、道庁の施策もさることながら、大正年代の北海道酪農を振興させた原動力は、酪農民による組合組織であった。
酪農家戸数の増加と相まって、各生産者の連絡緊密化などを目的とする組合が数多く生まれ、酪農を推進していった。

  • エドウィン・ダン

  • クラーク博士像(札幌羊が丘展望台)

  • そりでの牛乳配達(札幌近郊)

  • 創業者のひとり、黒澤酉蔵夫婦(大正初期)

  • 牛乳を配達する黒澤青年(明治42年ごろ)